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時間とはなにかといっても、それは空間とともに人間の存在認識の基本概念だから、
すべてがその中に含まれてしまい、容易に定義を寄せつけない。まして俳句にとって時間はなにかと問われても、
ほとんどお手上げである。それに近代俳句が写生を偏重したために、時間というものが句の中に要素として入る
ことを拒否する傾向も生まれた。その瞬間、その瞬間を切り取るべきだというわけである。
そのかわり時間性は季語に託してしまえばいいというのである。今、咲いている花、今、降っている雨を提示することは、
物理的なそのものを示すと同時に、季節の運行を示すことになる。季節の循環や回帰を思わせることで、人生の感慨や縮図を
句に託しやすくなるのである。しかしこのような図式的な方法が、いつまでも有効であるはずもない。意欲のある現代俳人は
それぞれに工夫を凝らして、時間性を俳句に取り込むことに腐心してきた。
朝顔の紺のかなたの月日かな 石田波郷
鮮やかな濃紺の花弁ごしに、はるかな歳月を思っているのである。波郷初期の代表作の一つ。ときに作者29歳。俳句にすべてをかけようと意欲も野心も満々の時期だから、この「月日」は越し方ではなく、行く末の「月日」だろう。洋々たる未来を、朝顔の紺の花弁のかなたの澄んだ空に託しているのである。死の2年前には「雪降れり時間の束の降るごとく」という句をつくっているが、まぬがれがたい死を予感するように、雪に託されたこの句の「時間」は、命の持ち時間がどんどん減っていくように、束となって降ってくるのである。
笹刈るや われら日月に憑かれたり 鷲巣繁男
ギリシア正教の信徒で、西欧の古典世界に造詣が深く、独自の著作と詩集を数多く残した鷲巣繁男は、青年期に新興俳句に共鳴し、富澤赤黄男に師事、句作に没頭した時期があった。この句はおそらく戦後、北海道に入植し辛苦をなめた頃の作品だろう。
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永遠はコンクリートを混ぜる音か 阿部青鞋
どのように説明しても徒労ではないかと思わせるのが青鞋の作品だ。そのまま味わって、そのまま美味しい作品がめじろ押しなのだ。「手の甲を見れば時間がかかるなり」という句も説明は無用なだけ。
日月や走鳥類の淋しさに 三橋敏雄
走鳥類はダチョウ目に属するダチョウ、レア、ヒクイドリ、エミュー、モア、キーウイなどの総称。翼はあるが、飛ぶことはできず、地上で暮らす。原始的だというわけではなく、地上生活に適応して、翼や胸筋が退化したのだと考えられている。つまり空での生活を捨てたのである。なぜだかはわからない。しかしそこにはある決断があったはずで、いいも悪いもその後は自らが下した決断に従って暮らしていくしかない。そこから滲み出てくるある種の哀感。作者は30年近くも海の上で暮らした人。とするとその後の地上での生活は、飛ぶことを止めた走鳥類と同類ということになる。
星影を時影として生きてをり 高屋窓秋
ほとんど最晩年の絶筆といってもいい句(辞世の句はこの人には似合わない)。「星影」は星の光で、われわれが今、見ている星の光は何万年、何十万年前に発せられた光だという事実はよく知られている。したがって星の光は時間そのものの光だということになる。それが「時影」である。空間と時間の一致した地点で自分は生きているのだ、あるいは俳句をつくっているのだという高らかな宣言。現代俳句の主流である写生という方法から最も遠いところに足を踏まえた、一俳人の存在を俳句史に刻みつける一句。
雪の川向うを別の刻流れ 神蔵器
川の流れに人生や世の中の流れを喩えることは、鴨長明や美空ひばりを持ち出すまでもなく、常道といってもよいが、この句ではその流れの向こうに、こちらとは違った時間が流れているというのである。そう作者に思わせるのは、川の流れに加えて、そこに雪が降っているからだろう。川の流れはこちらとあちらを隔てているが、雪はどちらの側にも降っているからである。
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