|
犬と日本人とのつき合いは古く、縄文時代の遺跡などに、人間といっしょに埋葬されたり、犠牲にされた例などが報告されている。
したがって文学作品にもさまざまなかたちで登場するが、近世の俳句においてはどうもあまりパッとしない。芭蕉も「行く雲や犬の駆け尿〈ばり〉
村時雨」「草枕犬も時雨るるか夜の声」などをつくっているが、できとしてはいまいち。弟子の凡兆の「犬の尾に冷たき土間の十三夜」は悪くないが、
彼の代表句というわけでもない。川柳では、食用にした赤犬や生類憐みの令をモチーフにした句が目につく程度。あまりに身近な存在だったためか、
あるいは季語にならなかったためか、少なくとも猫には一歩及ばずというのが江戸俳句における犬の存在である(「犬の尾を踏みてかよふや猫の恋 子交」
「犬はそこにをれとて猫は火燵哉 逸竹」)。しかし明治に入ると、犬が俳句の題材になるケースが増える。身近なものにも目を向けようという
意識が芽生えてきたせいかもしれない。とはいっても作品でみるかぎりは江戸期の延長という気がする(「犬が来て水飲む音の夜寒かな 正岡子規」「冬の夜や子犬啼き寄る窓明り 内藤鳴雪」。それに対して、大正昭和の俳句ではもっと自由にいろんな角度から犬というものを捉えるようになる。
春寒やぶつかり歩く盲犬 村上鬼城
村上鬼城は貧困と耳疾でずいぶん苦労した人。そんな自分を投影したと思われる盲犬を詠んだ一連の作品を残している。「長き日や寝てばかりゐる盲犬」
「行春や親になりたる盲犬」「大雪や納屋に寝に来る盲犬」等々。加藤郁乎に「元日や三本足の犬走る」という句があるが、不具であることをこのように
詠まれるところにも、日本人が犬をどのような存在として見てきたかが、現れているのではないだろうか。
雪の原犬沈没し躍り出づ 川端茅舎
童謡「雪」でも歌われているように、犬は雪の中を駈けまわるのが好きだ。狩猟犬としての習性が残っているのかもしれない。そんな嬉々雀躍として
雪の原を駈ける犬の姿態が鋭く捉えられている。特に「沈没し躍り出づ」が巧みである。語感そのままに躍動する犬の姿をイメージさせる。

|
|
曳かるる犬うれしくてうれしくて道の秋 富安風生
久しぶりに散歩に連れ出した時などに、よく見られる光景だ。ほんとうにうれしくてたまらないように全身で喜びを表わし、飼い主にじゃれついてきたりする。
この中七の大幅な字余りが、うれしくてどうしていいかわからないような犬の様子をよく伝えている。こんなに明るい「道の秋」は類がないだろう。
土堤〈どて〉を外れ枯野の犬となりゆけり 山口誓子
同じ作者に「炎天の犬や人なき方へ行く」という句があるが、似た内容である。ともに愛らしいペットといった感じの犬ではない。人間にはあずかり
知れぬなにかの事情を抱えた犬といった感じ。いくら人間と親しい家畜だからといって、動物は動物。猫ほどの孤高感はないにしても、犬には犬の事
情もあるのである。
さみだれや呼ばれて犬のかへりみる 中村汀女
五月雨の無聊さから、軒下の犬に呼びかけてみたところ、「なにっ」という感じで振り向いたのだろう。きわめて日常的な光景を切り取っただけの
ようだが、その飼い主と飼われている犬との親密な関係をさりげなくごく自然に納得させる優れた作品だ。
赤き犬ゆきたる夏の日の怖れ 渡邊白泉
昭和10年の作。大学卒業を翌年にひかえ、実作でも評論でも俳句へのめり込んでいった頃の作品で、すでに近代的なポエジーを俳句に持ち込もうと
する姿勢が顕著である。道で出会った赤い犬に、なにか不吉なものを感じたのである。それはあの世とこの世を行き来しているかのような不気味さを
漂わせて、人間たちに立ち混じって街を行くのである。

|