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大雑把な言い方だが、西欧の伝統的な二元論では、物と心、物質と精神をはっきり分け、身体は生命のない物体に属すと考えられてきた。それに対して東洋では、身体は物と心の中間にあって、両方を結びつけるものとされてきた。ここにあげた身体を題材にした俳句からは、ある程度、その辺の機微をうかがうことはできる。近年は二元論に立った近代合理主義の批判、反省から東洋的身体観の見直しの動きが顕著だが、それに応えるだけの作品を現代の俳句は生み出しているのだろうか。
水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
小説『鼻』は龍之介の出世作。それ以来、鼻にたくされた自尊心の問題は彼の生涯のテーマであった。この句は自死の直前に、「自嘲」と前書きされて、主治医に渡されたという。実際につくられたのはその4、5年前と考えられているが、辞世の句と本人が位置づけたということになれば、この句は自嘲というよりは自虐といってもよいような痛切さをもって迫ってくる。水洟の垂れた鼻をむきだしにして、自らの自尊心を躊躇なく踏みにじり、そして自ら死を選んだのである。
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
たいへんよく知られた三鬼の代表作の一つ。敗戦の翌年につくられていることから考えて、時代の雰囲気を濃厚にまとった句と考えられる。戦争が終わった直後には、女性の装いが劇的に変わる。モンペ姿の無個性な服装から、思い思いの開放的な服装に一変するのである。中には豊かな胸を強調してはばからない女性もいたことだろう。また敗戦の痛手からなかなか立ち直れないでいる男たちにくらべ、女たちの現実に処していくたくましさも目をひいたに違いない。それをも含め「おそるべき」と多少の揶揄を込めて言い放ったのである。その言い放った本人の姿をも彷彿とさせるところもまた三鬼らしい。
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人間の皮膚より寒いものはなく 阿部青鞋
言われてみればまことにそのとおり。寒いという言葉をもって認識するのは、人間だけなのだから、これ以上に寒いところは他にないのだ。寒暑は逆になるが、三橋敏雄に「鬼貫忌裸になればなほ暑し」という句があるが、両句はほぼ同じ視点に立っている。鬼貫といえば、敏雄と青鞋は新興俳句運動が弾圧された戦時中、渡邊白泉などともいっしょに古俳諧をさかんに研究していた時期がある。滑稽味をたっぷりと湛えた古俳諧は、芭蕉即俳句といった硬直した考え方にとらわれない自在さを彼らの句業にもたらしているように思われる。ついでなので紹介しておくが、鬼貫の「我むかし踏つぶしたる蝸牛哉」を踏まえたと思われる「かたつむり踏まれしのちは天の如し」という句を青鞋はつくっている。
五体隠る昼寝の巨き蹠〈あしうら〉に 橋詰沙尋
誰はばかることなくどうどうと昼寝をしているのである。腹掛けなどを掛けている程度なので、足の裏がはっきり見えている。それがまるで全身を隠してしまうほどの存在感を示しているというのである。足の裏を詠った句といえば、尾崎放哉の「足のうら洗へば白くなる」が名高いが、この句のせつなさとはまるで対照的な豪放さをもった句である。
わが頬の枯野を剃つてをりにけり 渡邊白泉
髭を剃っていたら、自分の頬の髭が枯草や薄のように思えてきて、これは枯野ではないのかと一瞬の興をもよおしたのである。単純なつくりだが、「枯野」は芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を当然、思わせるわけで、そうすると芭蕉の句を諧謔、あるいは自嘲に転じた句と考えることができる。白泉に師事した敏雄に「老ひ皺を撫づれば浪かわれは海」という句がある。
ぢかに触る髪膚儚し天の川 三橋敏雄
季題としての天の川は七夕伝説と関連づけられ、男女の逢瀬を背景に詠まれることが多い。掲出句も明らかにそれに因んでいて、句意に別段、難しいところはない。男女の間に横たわるはかなくも哀れな宿命が過不足なく述べられているのだが、注目したいのは、この字配りの美しさである。俳句は使う文字の数が極端に少ないこともあって、文字表現におけるタブロー絵画的な面が強い。漢字や仮名がおりなす視覚的なリズムやハーモニーも重要な要素として働くのである。その点でもこの句の完成度の高さは比類がない。身体に材をとった他の敏雄の句でもそれは言える。「霧しづく体内暗く赤くして」「萬物やあかがり強くたこ優し」「体温を保てるわれら今日の月」「撫でて在る目のたま久し大旦」等々。
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