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よもやま句歌栞草 Vol.5 2003年9月8日公開
乗物

人の移動の手段である乗物が、江戸期の俳句のメインのテーマになることはあまりなかった。それは鎖国や一般の人々の国内での移動を制限した政策にもよるものだろう。また季語の世界が農耕定住民の生活を一つの基盤に置いていることも影響しているだろう。しかし近代、特に昭和に入ると、近代的な各種の乗物を積極的に俳句の題材にしていこうという動きが出てくる。それはまた旧弊な俳句を脱しようという動きとも連動していた。その点で最も重要な役割を果たしたのが山口誓子である。まず彼の作品からみていこう。

夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子
この作品が当時、新しかったのは、題材として蒸気機関車をとりあげたというだけでなく、俳句そのもののつくり方が斬新だったからである。映画のカメラアイの移動のように、夏草から汽罐車の車輪に視点が移動し、そこに強いピントを合わせる。その明快な方法論は、虚子の唱える花鳥諷詠、客観写生に縛られていた俳句の可能性を押し広げるものであった。最近、売出し中の某俳句学者がこの句に先行する重要な作品として、日野草城の「常夏やきしりて止まる貨車列車」という句をあげていたが、この二作品は方法論においても作品のスケールのおいてもくらべものにならない。比較するほうが無茶というべきである。俳句をわかっていない俳句学者が増えている。

自動車に昼凄惨な寝顔を見き 渡邊白泉
駐車している車の側を通りがかったら、車内に凄惨としか言いようのない顔をして昼寝をしている人が見えたのである。凄惨な寝顔というのがこの句の発見で、それは近代社会の中で疲弊していく人々の悲しくも恐ろしい姿である。

 

昇降機しづかに雷の夜を昇る 西東三鬼
「雷」と題する連作中の一句。他に「屋上の高き女体に雷光る」「雷とほく女ちかし硬き屋上に」がある。他の作品からすると、エレベーターに女性といっしょに乗っていることになるが、掲出句は独立した一句として鑑賞したい。そのほうが句に広がりと厚みが出る。

さよならと梅雨の車窓に指で書く 長谷川素逝
プラットホームでの別離は、演歌や映画などでもさまざまに見られるように、すでに通俗化したパターンになってしまっているが、この句がそのパターン化をまぬがれているとすれば、「梅雨」の一語のせいだろうか。

故郷の電車今も西日に頭振る 平畑静塔
一両かせいぜい二両編成の小さなローカル線なのであろう。帰郷の際に、昔と変わらずそれが頭を振って懸命に走っていたのである。けなげといってもよいその姿に、作者は胸を打たれたのである。

後尾にて車掌は広き枯野に飽く 小川双々子
最近の列車で見かけることはほとんどないが、以前は列車の最後尾はオープンデッキになっていて、車掌室も付いているものが特急列車などでは多かった。現在でも車掌はだいたい最後尾にいる。だから車掌は業務外の時間は後尾に過ぎ去って行く風景をただただ見ているしかない。その無聊感に目を止めたのである。


曲がるたび真直ぐ暗し消防車 三橋敏雄
火事の現場に急ぐ消防車。街路を曲がるたびに、前方に真直ぐな道路が現れる。ただその事実を叙しただけだが、この臨場感は俳句とは思えないほどの強さである。また「曲がるたび真直ぐ暗し」はなにかの予兆、あるいは比喩になっているようでもあり、さまざまなことを思わせる。

葉桜の頃の電車は突つ走る 波多野爽波
桜は花が散り始める頃から若い葉が出始め、すっかり散ってしまった頃には、全体がみずみずしい若葉に包まれる。これが葉桜である。桜の花は落花を前提にしているようなところがあって、それまではいわば緊張が続く。しかし花が落ち尽くしてしまえば、その緊張から解かれ、なんとなくほっとするのである。同時に葉桜が鮮やかな緑を見せ始めると、新たな力が沸いてくるような気もする。そのへんの感じをきわめて端的な表現で言い止めた気持のいい句である。

月の人のひとりとならむ車椅子 角川源義
癌で入院中のおそらく屋上で想を得たものか。余命幾ばくもないことを覚悟しているのだろう。今宵はたった一人で月と向き合おうというのである。車椅子はこの自分を地上につなぎ止めているささやかな移動手段でしかなく、月までは連れて行ってくれない。しかし月の光に照らされている自分は、すでに「月の人」となっているのである。

 

飛行機で着陸したるまぐろかな 中村裕
空輸される高級マグロが増えている。魚が外国から飛行機でやってくるなどという事態は以前は考えもされなかったが、今日ではとりたてて珍しいことでもなくなった。しかし考えてみれば、やはりどこか不自然でおかしい。そんな事態が現代には遍在しているのである。

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ/汽車を下りしに/ゆくところなし 石川啄木
鉄道や汽車の出現は、近代社会を象徴するという意味で、きわめて大きなものがあった。それは実利の面だけではなく、人々の意識の面に与えた影響も大きい。蒸気機関というそれまで存在しなかった動力で牽引される汽車は、単なる乗物というより、異次元、異世界への憧憬をも担うことになるのである。どこへ行くというあてもなく汽車に乗ってはみたが、永遠に乗っていることはできない。現実に引き戻されるように下車したが、さてどこへ行けばいいのか。あてどなく現実をさまようしかない故郷喪失者、石川啄木。

わが影を轢〈ひ〉きて去りたる自動車が野の夏草に溺れてゆきぬ 齋藤史
自分のすぐそばを、まるで自分の影を轢き殺すかのように一台の自動車が通りすぎた。と思うまもなくその自動車は、生い茂る夏草の中に没して行ったのである。いきなり自分を抹殺するかのように闖入してきた自動車は、その報復を受けるかのように、生命力そのもののような夏草の草叢に呑み込まれて行くのである。生と死の鮮やかな対比。

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