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日用品と一口にいっても、衣食住にわたるあらゆる道具類や品物が含まれるわけで、あまりにもその範囲は広い。俳句が季題としてとり上げてきたそれは、衣では和服、きもの関係が圧倒的に多く、住では防暑、防寒に関わるものがやはり多い。いずれにしても、日用品自体は自然のものと違って直接、季節感を感じさせる存在ではないし、俳句表現の中でもメインの題材としてではなく、小道具的にしか扱われてこなかった。とはいっても、やはりすぐれた俳句作家は日用品に向けるまなざしも凡庸ではないことが、これらの作品から知れるだろう。
秋雨の瓦斯〈ガス〉が飛びつく燐寸〈マッチ〉かな 中村汀女
マッチでガスをつけようとしたところ、ガスの方からマッチに飛びついてきたような気がしたというのである。きわめて鋭意に日常のひとこまを切り取っている。汀女は主婦としての立場を崩さなかったので、台所俳句などと貶されたが、それでなにが悪いのと居直ってもいた。この句のもつ誰も真似のできないような鋭い切れ味を見せつけられると、その自信にもついうなずいてしまう。
湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ 西東三鬼
昭和14年にしてはモダンで艶っぽく、甘く情緒的な句である。女性を詠う巧みさにおいて、三鬼を超える俳人はいまだに出現していないのではないだろうか。戦後の30年には「ヘヤピンを前歯でひらく雪降り出す」という句をつくっている。前歯で開くのは髪にヘヤピンを挿すために、片手が髪を押さえているからである。さりげなくかつ鋭く女性の所作を捉えている。
扇風機止り醜き機械となれり 篠原梵
動くためにつくられた機械は、その動きを止めば生命を奪われた生物と同じで、ただの醜い物体でしかない。それを非情ともいっていい冷徹な目で見つめた。
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短日の時計の午後のふり子かな 飯田蛇笏
短日という冬の季語が生れた時代には、もちろん今日の機械時計は存在しなかった。むかしは明六つと暮六つで昼夜を分かち、それぞれを6等分する不定時法だったから、昼の1時間と夜の1時間は同じ1日でも、年中、長さが違った。文字どおり夏は日が長く、冬は日が短いのである。短日という不定時法の時代の言葉が機械時計による定時法の現代に生きるおかしさがこの句の見所だろう。「時計屋の時計春の夜どれがほんと」(久保田万太郎)、「立春の暁の時計鳴りにけり」(前田普羅)もよく知られた時計の句。
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる 富澤赤黄男
「観念の形象化を、これほど見事に実現した作家は、他にいない」と高屋窓秋が赤黄男を評しているが、この句ではどんな観念が形象化されているのだろうか。問題は句切れのところで一字分の余白が設けられていることだ。その働きはおそらく言葉の線条性に揺さぶりをかけるためである。「偶然の蝙蝠傘が倒れてゐる」という意味を作者は伝えたいわけではないと、この余白は主張しているのである。つまり言葉の意味の必然性は、その線条性によって保証されるが、この句でいっている偶然というものは、線条性を切断することが必要だということである。余白のない場合の、特に「偶然の」はどのように働くのか判然としないが、余白を置いて読むと、意味としてではなく、俳句という詩として、読むものに説得力をもって迫ってくる。それがこの句における観念の形象化である。
死ぬも生きるもかちあふ音の皿小鉢 三橋鷹女
冠婚葬祭のすべてに飲食がともなう。うれしいかろうが、悲しかろうが、人が集まるところでは飲食がつきものだ。それを皿小鉢の音で表わしたのが秀逸である。「かちあふ」も効果的で、人間関係にも響かせている。三橋敏雄に「もの音や人のいまはの皿小鉢」という句があるが、同時期につくられているのいで、どちらかがヒントを得たものであろう。
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