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俳句において仕事(労働、職業)がどのように詠まれてきたかを、季語のレベルで考えてみると、農林漁業関係のものが圧倒的に多いことは容易に想像がつく。それが自然に関わる仕事だからである。しかし近代的な職業のほとんどは季節とは無縁。したがって有季定型という枠をはめて俳句を考える保守的な立場からは、仕事はあまり俳句の対象とはなってこなかったが、昭和初年のプロレタリア俳句や10年ころから興隆する新興俳句運動では、季語の有無にこだわらない立場から、工場労働者やサラリーマンなどの生活感情を積極的に詠った。その流れは戦後の社会性俳句に引き継がれていく。
美しきネオンの中に失職せり 富澤赤黄男
赤黄男は新興俳句の有力作家として活躍したが、既成概念にとらわれぬ独自な象徴詩法から、より詩的に俳句を研ぎ澄ましていった。でも初期にはこの句のように生活実感に即した平易な句も書いていた。掲出句のつくられた昭和10年ころは、4年の世界大恐慌の影響で、「大学は出たけれど」という映画の題名が流行語になるほど、失業者が町に溢れていた。赤黄男も大学卒業後、たまたま職を得ても長続きせず、生活苦に喘いでいた。そんな不安な世相は、反面、「エロ?グロ?ナンセンス」がトレンドで、「東京音頭」が爆発的にヒットするといった時代だったのである。同じころの下村槐太には「路地の露滂沱〈ぼうだ〉たる日も仕事なし」という句がある。
夜業人に調帯〈ベルト〉たわたわたわたわす
阿波野青畝
工場労働で残業をしているのである。そこに回っているベルトがたわたわ波をうって動いているというのだ。工場などでの夜業はあまり季節には関わりがないが、季語としての「夜業、夜なべ」は秋のもので、この句でも秋の夜長における夜業の無聊さ、倦怠感のようなものが擬態語の畳語でうまく表現されている。青畝は畳語の使い方が巧みで、効果的にそれを使った気配や雰囲気の表現に秀でていた。
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理髪師に夜寒の椅子が空いてゐる 石川桂郎
桂郎は家業の理髪店を継いで、昭和16年まで東京の三田で理髪業を営んでいた。人の坐っていない椅子は、客用のものかどうかは書いていないが、おそらくそう考えてよいであろう。今までたくさんの客が坐り、これからもいろんな人が坐るであろうこの椅子は、単なる椅子ではあるが自分の生活を支えているものでもある。その椅子を眺めていると、なんだか自分のみじめな生活を見ているような気もしてくるのである。
鉄工葬をはり真赤な鉄うてり 細谷源二
新興俳句運動はけっして一色ではなく、さまざまな多様な動きがあった。工場俳句もその一つで、源二はその最初の積極的な実践者の一人であった。「鉄工葬」というのは、工場内で事故死した同僚の葬儀を組合などが主催して行なったものであろう。この句がつくられた昭和13年といえば国家総動員法が公布された年で、そういった急迫した時代背景下、「鉄工葬」は早々と切り上げられ、戦力増強の掛け声のもとで、再び真っ赤な鉄を打つ鍛造作業に戻らなければならないのである。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太
兜太は戦後、社会性俳句の旗手として頭角をあらわすが、この句はその主張を鮮やかに示した作品である。日本銀行に勤務していた兜太には銀行員を詠んだ句がいくつかあるが、銀行員という職業人の性情を、朝から蛍光する烏賊と鋭く捉えた。
賀状完配井戸から生きた水を呑む 磯貝碧蹄館
碧蹄館は郵政職員として長く郵便配達にたずさわった人。年賀状の配達は年間の郵便配達業務の中でも最も短期間に集中するもの。一日その配達に忙殺され、やっとすべてが終わり、井戸の水を呑んだところ、それが生きているように感じたというのである。しかしそれは水が生きているということではなく、水が潤していく肉体が「生」を実感しているということなのである。責任を果たした安堵と満足感が、そう感じさせるのである。「賀状完配われ日輪に相対す」という句もある。
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