久女が俳句を学び始めるのは大正5年。高浜虚子が女性にも俳句の門戸を開こうと始めた「ホトトギス」誌上の婦人十句集が恰好の指針となった。そして早くも6年1月号の「ホトトギス」の台所雑詠に5句が掲載され、8年6月号には代表句の「花衣」が発表されるのである。同8月号で虚子は「女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐる」と称賛し、彼女の句を「清艶高華」と称えた。
虚子の次女である星野立子に「花衣ぬぎてたたみてトランクに」という句があるが、この違いは歴然で、久女の存在がいかに当時、突出したものであったかがわかろうというものだ。大きく強くものの本質を捉え、かつ丁寧に細部も見せていくというその句作りは、当時の女流俳句のなかでは、際立ったスケール感を見せつけている。
また女流俳句についての関心が強く、江戸時代の俳書もずいぶん蒐集していたようだ。「大正女流俳句の近代的特色」「女流俳句と時代相」といった文章も書いている。その一つの「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」に「いや女が男子にけなされる其理智と感情とを混同したがり、時々は命がけにもなる点。ジョウギで引いた如く万事が理詰めでゆかぬ所。女なんか、とけなされるところに、女性の特色があり、女流俳句の進むべき道があるのではないか?」とある。男と張り合うところに女流俳句の存在理由を見出すのではなく、けなされようとも女性的性情にこそ女性の俳句の活路はあるのではないかという意見には、現在でも同意する人は多いのではないだろうか。
しかし昭和11年、なんの予告も説明もなく、ホトトギス同人を日野草城、吉岡禅寺洞らとともに除籍されてしまう。それについてはいろいろな理由が推測されているが、少なくとも久女については、虚子は彼女のひたむきさが煩わしくなったと、簡単に考えた方がいいようだ。師でありながら、なんというご都合主義だと思うが、これが虚子である。しかもその理由を、彼女の精神分裂にあったと思わせるような曲解した文章を発表する。これが事実に反することは今日では定説になっている。除籍された翌年の「俳句研究」に次の四句を含む「青田風」という十句を発表する。
いちおう意地を張っているのである。しかしこれ以降、急速に俳句への意欲は衰えていく。虚子に嫌われたって、もはや一本立ちしているのだから、いくらでもやりようがあったのではと思うのだが、この女性らしい脆さもまた久女のものなのである。
|