きりがないので、このくらいにする。何のためにつくられた句かは前書でわかると思うが、「杣男とは」は選挙応援のための句。代表句とされるものに入るのは「たとふれば」ぐらいで、その多くは平々凡々、駄句といわれてもしかたのない句も混じる。それでも、なにはともあれ“虚子の句”である。虚子先生、御手自ら下される句の有難さはたとえようもないのである。
俳句を定義するのに、山本健吉のいった「挨拶」を持ち出す人が多い。虚子はそれを「存問」といったが、いずれにしても一句独立をめざすよりも、他者との関係の中に俳句の存在理由を見出そうとする姿勢は、「俳句」が「俳諧」であった昔に戻ろうとするのに等しい。泉下の子規の嘆きはいかばかりかと思うが、虚子には虚子なりの見通しと戦略に立った上でのことだったろう。それはあくまで俳句で食べていくということである。文筆で身を立てようと取り組んだ小説では、時流に合わずに挫折。やはり俳句でいくしかないと腹をくくった時に、師であった子規の意志に反することを承知しながら、虚子はこのような保守的な方向に自らの俳句の軸をとるのである。それはできるだけたくさんの弟子をつくること、つまりは江戸の昔の「宗匠」に戻ることであり、自らの結社経営に家元制度を導入することだったのである。
たくさんの弟子たちとの関係を緊密にし、その政治勢力を拡大していくために必要不可欠だったのが、その膨大な慶弔贈答句だったのである。 |