いろは歌のアナグラムが作られるようになったのは、江戸時代からのようです。
享保五年(1720)に、江戸の書家の細井広沢が『君臣歌』を著しました。そこに、
きみ(君)まくら(臣)、おやこ(親子)いもせ(妹背)に、えと(兄弟)む(群)れぬ、ゐ(井)ほ(掘)りた(田)う(植)へて、すゑ(末)しげ(繁)る、あめつち(天地)さか(栄)ゆ、よ(世)をわ(佗)びそ、ふね(船)のろなは(艫縄)
というものが載っています。これについて、広沢は次のように述べています。
いろは歌は
空海が作ってから広く用いるが、仏教臭が強く神道・儒教の趣意ではないから、子供たち
がこれを習うのは吉祥ではない。自分は若いときから菅原道真を信仰していたが、今年八
月、夢に神人とおぼしき公卿が現れ、「きみまくらおやこいもせにえとむれぬ」と高らかに
仰せられたのが耳に残り、三日三夜で後を続けて完成した。
歌の後には自らの注解が添えてあります。
宝暦十三年(1763)に尾張の僧の諦忍が著した『以呂波問弁』という本に、天照大神が大已貴尊(おおなむちのみこと)に授けた四十七言の詔というのが載っています。
ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをはたくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ
初めは一二三四五六七八九十ですが、その後は何を言おうとしているのかよくわかりません。
日本の古代に文字があったと力説する平田篤胤は、文政二年(1819)に著した『神字日文伝(かんなひふみのつたえ)』に、古代の日本の文字という数種の神代文字を掲げ、それをこの「ひふみよ…」の順に並べています。国粋主義者の篤胤ですから、仏教臭いいろは歌は退け、天照大神のものに飛びついたのでしょう。余談ですが、この神代文字は、四十七字しかないのは古代の日本語の音韻を反映していないこと、1446年に制定された朝鮮語のハングルの影響を受けて作ったと思われることなどから、現在は否定されています。
尾張藩士の未足斎六林という人が作った『つの文字』(寛政三年〈1791〉跋)という本があります。凡例に、いろは四十七字、ん・京と畳字(ゝ)の分の白牌と合わせて五十枚の木で作った札を持っていて、それをいろいろに並べ換えたと述べ、仮名遣いの誤りがあるのは、「わづか四十七字をもて森羅万象を模写せんとす」るのだから、「い・ゐ・ひ、え・ゑ・へのたぐひ、通じ用ひざれば、余不足をつぐのひがたし」と言い訳しています。
序として、
いろはのもしほぐさ(藻塩草)に、げぶむ(戯文)をまねあゐ(愛)せるお、よひと(世人)すべてうちゑ(笑)みぬめり。これわつたな(拙)きゆえ(故)からぞや。
を掲げ、その後にさまざまな形式の作を並べています。
(仮名詩)題鉢扣
そし(祖師)くうや(空也) たわ(戯)れねぶつ(念佛)ひろ(弘)めなら(習)へ のり(法)おぼ(覚)ゑるかぜ(風)もさむ(寒)ゐ ゆき(雪)にあ(明)けぬこえ(声)ていとを(丁東) みち(道)まよ(迷)はず
試筆三ツ物(連句の第三まで)
ふではじ(筆始)めいろ(色)やわら(和)げるかな(仮名)よりぞゆきおれ(雪折)まど(窓)のゐほ(菴)へうぐひす(鶯)たず(尋)ねえ(得)むみ(見)えもせぬ京をあさごち(朝東風)に
(俳諧歌)寄節分菴
みそくさゐ(未足斎)ほろゑ(酔)いのゆえ(故)か(書)きなすこよひ(今宵)ね(寝)ぬをに(鬼)もわらへ(笑)へりせつぶあむ(節分菴)おれ(己)(己)うちまめ(打豆)とはや(囃)した(立)てける
(和歌は三十一字だから残りの十六字は詞書に用いるが、言葉にならないものがあっても許してほしいと、著者は弁明しています。)
(漢詩)送田子菴之東都(訓読が四十七字です。)
酒満兼攀柳(サケミチヌカネテヤナギヲヨヅ)
征衣天遇春(セイヱソラモハルニアヘリ)
飛花路傍笛(ヒクワロボウノフエ)
未是駐遊人(ヰマダコレユジムオトメズ)
他に、琴歌、小謡、紀行文などの作があり、跋も、
いろはをわ(分)けてつら(連)ねえ(得)
ちゑがほ(知恵顔)おごめきするも
とり(鳥)のあし(足)た(絶)へぬよせなれ
むま(午)ふゆ(冬) ひやう(尾陽)みそくさゐ(未足斎)
というものです。さらに補遺として、自作の他に、江戸の太田南畝から送られた
けふ(今日)つのもじ(文字)をえ(得)てまね(学)び、ち(智)いう(優)にな(名)よ(良)ゐたは(戯)れことわざ(事業)ゆゑ(故)、あからめせずおぼ(覚)へぬるぞやろくりむきみ(六林君)
六林と同じ尾張藩士で俳文集『鶉衣』の著者である俳人の横井也有からの
はせをおきな(芭蕉翁)ま(待)ちえ(得)ぬる。むべ(宜)もよ(世)にいろね(色音)のこ(遺)らず。わか(和歌)やし(詩)つく(作)りゆゑ(故)あれど。さそ(誘)ひう(受)けてたみ(民)ほ(褒)めたまふ
などの三首と後書き(これも同様のものです)などを載せています。
国学者たちもいろいろと試みたようです。本居宣長の『鈴屋集』(五)に、「同じ文字なき四十七文字の歌」の詞書で、
あめ(雨)ふ(降)れば ゐせき(堰関)をこ(越)ゆる みづ(水)わ(分)けて やす(安)くもろひと(諸人) お(下)りた(立)ち う(植)ゑしむらなへ(苗) そのいね(稲)よ まほにさか(栄)えぬ(二一八八)
という作が載っています。
伴直方が文政四年(1821)に著した『伊呂波考』に、広沢、宣長の作の他に、谷川士清(たにがわ・ことすが)、田中道麿、鶴峯戊申などの国学者たちの作七首が載っています。谷川士清の
あめつち(天地)わ(分)き、かみ(神)さふる、ひのもと(日本)な(成)りて、ゐやしろ(礼代)を、おほんべ(大嘗)ゆ(斎)には、うら(卜)ま(設)けぬ、これぞた(絶)えせぬすゑ(末)いくよ(幾世)
など、六首までが「あめつち」で始まるものであるのは、やはり『千字文』あるいは「あめつちの詞」を意識しているのでしょうか。これらは国学者たちの作だけに、仮名遣いの誤りはありません。
文化三年(1806)に出た式亭三馬の『小野
字尽(おのがばかむらうそじづくし)』に、「いろは新字」として次の歌が載っています。
諸方無性 いろとさけにわ、みなまよひやす(色酒皆迷妄)
身性滅法 ちりうごくゆめ、かねのほしきは(散動夢金欲)
惣別不粋 たれもふえるぞ、つらゐ(誰充満辛気)
不食貧楽 おへぬをあゑてせむ(寂滅敢而為)
上に漢字で記してあるのは涅槃経の偈のもじりでしょう。いろは歌のパロディーと言うべきものですが、みずから「四十七字をやうやうのことでこじつけた」と記しているとおり、
アナグラムになっています。まじめな国学者たちの作と違って、滑稽さをねらって成功しています。
『百草露』(一〇)という随筆には、江戸の狂歌師の鹿都部真顔(しかつべのまがお)の、
ふたおや(両親)のおし(教)ゑをうけて よ(能)くまね(学)び はろ(悪)きむり(無理)せぬすなほ(淳)ゆへ(故) あめ(天道)にし(知)られいえゐ(家居)も(持)ち、み(身)ぞさか(栄)えつる
という教訓臭の強い作が載っています。