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第5回 「賦物(ふしもの)」  
2.発句に残った「賦物」

『明月記』の記載を見ると、初めのころの賦物は前節のようなものですが、嘉禄元年(1225)に「白何何屋」という賦物で連歌を行っています。これは、五七五の句には、たとえば糸・石・玉など、何のところに入れると白糸・白石・白玉という複合語になるような語を、七七のほうには、板屋・岩屋・瓦屋となるような板・岩・瓦などを、詠み込むのです。

仁治三年(1242)ころに作られた「賦何屋何水連歌」の最初から九句目までが残っています。発句は、

鹿の音も松の戸にこそ訪るれ

で「松屋」となり、以下、賦物は「山水・岩屋・湯水・柴屋・夜水・板屋・根水・雨屋」となっています。全部に賦物が行われていたことが分かります。

『明月記』でもそうですが、以後の連歌ではこの形式が主流になります。五十四の『源氏物語』の巻名や六十八の国名には、隠し題として詠み込みにくいものもありましょうから、それに比べると、この形式はかなり自由であり、好まれたのでしょう。

『明月記』を見ると、そういう賦物でも、風情を得ないとか、連歌が停滞するとか書いてあります。芸術的な連歌を作ろうとすると、こういうことば遊びは邪魔になるのでしょう。連歌を芸術的にするために、どういう語や句をどのように詠むかをいろいろと規定した式目が次第に整備されてくると、賦物で全体を統一する必要がなくなります。賦物を取るのは、表八句(最初の八句)まで、さらに第三までとなり、ついには、一条兼良の『連歌初学抄』に、昔はすべての句に賦物を用いたが、「近代は発句ばかりに賦物の沙汰あり」とあるように、賦物は発句だけに痕跡的に残るものとなりました。

連歌の代表的な名作として教科書などにもよく引用されている長享二年(1488)正月に作られた「水無瀬三吟百韻」は、「賦何人連歌」です。発句は「雪ながら山本霞む夕べかな 宗祇」。「何人」の「何」のところに、「山」を入れると「山人」という語ができます。

この時代の賦物はそれで十分なのですが、脇句の「行く水遠く梅匂ふ里 肖柏」からも意図していない「里人」ができます。

賦物が発句だけになった時代でも、全句にわたって賦物を取った作品もつくられています。宝徳三年(1451)三月に一条兼良邸で行われた「三代集作者百韻」は

春は今日夏を隣の千里かな(大江千里) 経清
帰るを送る鳥の道風(小野道風) 御(兼良)
霞み行く月にしたがふ山暮れて(源順) 方(一条教房?)

とカッコ内の人名を隠し題にして百句続けています。

同じ年の八月十五日の「以呂波百韻」は

寝(い)を寝ぬや水のもなかの月の秋 御(兼良)
櫓を押す船の初雁の声 
はるかなる霧間の山は鳥に似て 宗砌

と、平安時代のいろは連歌を復活しています。前に記したとおり、イロハは四十七字ですから、二倍しても百句になりません。スの後に「キヤウ(京)」の三字を入れて五十字となり、それを二度繰り返して百韻にしてあります。

俳諧では、俳諧であることがすでに賦物であるから改めて賦物を取る必要はないという考え方もあったのですが、興味本位でわざわざ取り入れた作品もあります。

斎藤徳元(1559−1647)に魚鳥誹諧という「おのが名の紅葉や閉づるこごり鮒」で始まる独吟の百韻があります(誹諧独吟集)。右の発句で「鮒」がそうであるように、必ずしも隠し題になっていないところもありますが、一部を引いてみます。

大黒と恵比寿を拾ふ秋はよし(海老)
蔵に俵を積み重ね置く(雀鷂=ツミ)
代官を受け継ぐ身こそ目出たけれ(鶇=ツグミ)
百姓はただ殿の田作り(田作=ごまめ)

井原西鶴が延宝八年(1680)五月七日の一昼夜に四千句(百韻を四十)を詠んだ『西鶴大矢数』では、第一の発句は、

何泰平 天下矢数二度の大願四千句なり 西鶴

で「天下泰平」、第二の発句は

手何 姿の花また吹き出だせ大句数 重直

で「手花(鼻)」となるなど、すべての発句に賦物が行われています。「何泰平」などいう賦物は連歌にはなく、西鶴は好事的に新しい賦物を作ったのです。

第5回 「賦物(ふしもの)」  
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