前回、有名なものを忘れていました。慌てて追加させてください。
『太平記』(三)に、次の話があります。元弘元年(1331)に、鎌倉幕府によって京都を追われ、笠置山へ移られた後醍醐天皇が、ある夜、「紫宸殿の庭前と覚えたる地に、大きなる常盤木あり。緑の陰茂りて、南へ指したる枝、殊に栄えはびこれり。…」という夢を見られ、「木に南と書きたるは楠といふ字なり。」と判断して、「もしこの辺に楠といはるる武士やある。」とお尋ねになって、楠正成を召し出されます。
江戸初期に作られ後期まで版を重ねた『小野篁歌字尽』という本は、漢字学習のための教科書で、偏や旁の共通する漢字をいくつか並べ、それらをまとめて覚える歌を添えたものです。第一項は「椿榎楸柊桐」、歌は「はるつばき、なつはえのきに、あきひさぎ、ふゆはひひらぎ、おなじくはきり」というものです。これは同じ偏のものですが、旁が同じものもあります。「汀灯釘町打」の歌は「水みぎは、火はともしびに、金はくぎ、田はまちなれば、手をうつとよむ」です。
文化三年(1806)に出た式亭三馬の『小野
字尽』(おのがばかむらうそじづくし)はこの本のパロディーで、第一項には、人偏に「春・夏・秋・冬・暮」が書いてあって、「春うはき夏はげんきで秋ふさぎ冬はいんきで暮はまごつき」としています。この歌は、「睨み返し」や「掛け取り漫才」など歳末の落語で、パロディーであることを離れて、滑稽な歌として枕に使うことがあります。
ついでに、新しい漢字を作らせた話。わたくしは、授業で六書を説明した後で、試験に「会意の方法で文字を作れ」という問題を出すことにしていました。人偏に「冷」が書いてあって、「先生、あなたですよ。」というコメントが付いた答案には、十点満点のところ、十五点与えました。
安永五年刊の『柳多留』(十一編)に、
直針(すぐばり)で釣ったは鯛のつくりなり
という句があります。世を避けて渭水の浜で真っ直ぐな釣針を垂れていた呂尚(太公望)が、周の文王に求められて師となり、周を建国した故事を詠んだもの。つくりと言って刺身のように思わせ、実は鯛の旁(つくり)は周というのがこの句のミソです。
江戸時代の少しいかがわしい本では、接吻を「呂」とすることがあります。いかがわしくない本を引用します。天明七年(1787)に蘭学者の森嶋中良が外国人のことを書いた『紅毛雑話』(二)に、西洋人は
生き別かれには手を握り顔を合はせ、
甚だしきにいたりては、
呂字(くちをすひ)などして別れを惜しむ。
とあります。
長崎で茶箱に清人が書いた「人在草木間、目有竹木傍(人は草木の間に在り、目は竹木の傍らに有り」という字謎があると、喜多川守貞の『守貞漫稿』(遊戯)に出ています。三字ずつで一字になるのを対句にしています。
嘉永三年(1850)に西沢一鳳軒が書いた『皇都午睡』という考証随筆に、「上総の九十九里村の文字を白里村と書く。一を足せば百となるゆゑ、白を九十九と読ます由」とあります。先の白寿と同じ考え方です。ただし、千葉県山武郡大網白里町の教育委員会に問い合わせたところ、これについては否定的な回答がありました。
地名をもう一つ。
今は山梨県韮崎市に合併してしまいましたが、明治七年から昭和二十九年まで、清哲村という村がありました。これは「水上・青木・折居・樋口」の四つの村が合併し、その一字ずつを合わせて、水と青で清、折と口で哲としたものです。柳田国男氏は、「是などは他日清哲と云ふ坊さんでも開いたと云ふことになるかも知れない。」(「地名の話」『地名の研究』所収)と、少し苦々しげに語っています。
三好達治の散文詩「郷愁」(『測量船』所収)に、
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、
あなたの中に海がある。
という部分があります。漢字の海の中には「母」があります。フランス語では、mere(母)の中にmer(海)があるのです。これは詩人の機知の産物と思いますが、もしフランスでもこう言うのであったらお教えください。