もっと込み入った離合詩というものもあります。短くて離合詩を説明しやすい菅原道真の「秋夜」を引きます。
班来年事晩(班(あ)かち来たりて年事晩(おそ)し)
刀気夜風威(刀気夜風威(はげ)し)
念得秋多怨(念ずること得たり秋の怨(おも)ひ多きことを)
心王為我非(心王我が為に非なり)(菅家文草・一・二一)
老人たちをあちこちに分けて行く。刀の殺気のように夜の風ははげしい。秋は怨みが多いことを悟った。心という王よ、時勢は私にとって良くない
第一句の班から第二句の刀を除き、第三句の念から第四句の心を除いて、それを合わせると琴となります。詩の裏には、だから琴でも弾いていよう、という気持ちがあるのでしょう。
離合詩は中国には何種類かあります。字訓詩は中国にはないようで、日本で離合詩を簡略にしたものと思います。「むべ山風を」や「木毎に花ぞ」などは、こういう漢詩の影響を受けているのです。
源順(911−983)の「歳寒に松貞を知る」という漢詩に、
十八公の栄は霜の後に露(あらは)れ
一千年の色は雪の中に深し(類聚句題抄)
という一節があります。十八公は松です。謡曲「高砂」に、
松は万木にすぐれて、十八公のよそほひ、千秋の緑をなして、古今の色を見ず。
など、以後のものにもいろいろと見えます。
寛永十八年元日に
寛永や十八公の門の春(崑山集)
という初期俳諧の句は、門松を詠んだ句です。
古代の日本の貴族たちの中国知識のタネ本であったという『芸文類聚』という百科全書のような本には、『呉録』という本の、松が腹の上に生えた夢を、「松の字は十八公なり」、十八年後に公になる前兆だろうと判断したという話が出ています。『西遊記』(六十四回)には、十八公という松の妖精が出てきます。
米を八木と言う例が平安時代の記録類からあり、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』の元暦二年(1185)三月七日の条に、平氏によって焼かれた東大寺の修造のために、源頼朝が「八木一万石、沙金一千両、上絹一千疋」を寄進したなどと見えます。時代が下りますが、西鶴は、
難波の入湊に八木の商売をして次第に家栄えけるは(日本永代蔵・一・三)
手づから作れる八木はその国主に捧げ(新可笑記・四・一)
などと用いています。この「八木」は『大漢和辞典』に中国の例は出ていません。日本で作ったものでしょうか。
寛元二年(1244)以前に源光行・親行父子が『水原抄』という『源氏物語』の注釈書を著しました。「水原」は「源」を分解したものです。