倉島

当時の資料はみんな、『大日本国語辞典』の改訂版ということで、「大日本改」ということで私は扱ったことを覚えております。

第一回の顧問編集委員会が昭和三十九年一月八日でしたね。

で、その顧問委員のメンバーの中では金田一京助先生が最長老で、たしか八十一歳だったと思うんですけれども、次に同じような年配の諸橋轍次先生が八十歳で、お二人とも矍鑠として出てくださいましたよね。

松井

そうですね。

倉島

たしか、金田一先生が最初に発声してくださったような気がしますけれどもね。

松井

あのときは、時枝誠記先生も見えましたよね。後から聞いた話だと、時枝先生は私の指導教官ですから、「松井は、ああいう大きな仕事に耐えられるだろうか」とほかの僕の同級生に漏らしたそうですから、大分心配してくださったようです。

倉島

それは、その席でも心配を、直接、先生のことではないんですけれども、辞書に対する心配を発言なさっていたのは、時枝先生でしたね。

当時、こう言うのも変ですけれども、小学館はまだこんなに大きくなってませんから、松井が大丈夫かという以上に、お店は大丈夫かと、僕はよく言われました。

で、松井先生は間もなく辞書に専念していただくために、教職をなげうっていただいたわけですけれども、大学のほうまでなげうって、この企画に身を投じてくださったわけですが、あれは何年ごろでしたか。

松井

あまりよく覚えてないんですよね。昭和四十二年ころですかね。ただ、その前後、数年間は向こうにもわがままを言い、こちらにもわがままを言いみたいな生活で、一日学校に出てあとは辞書というような時期もありましたし、逆に辞書のほうが二日で、あとは先生というふうな時期もありましたね。ああいう高等学校ですと、研究日というのは週一日なんですよ。それを週二日認めてもらうとか、わりに好意的に学校のほうも、「そういう仕事ならば、まあ、いいですよ」と言ったりしてくれて、こっちもそれに甘えました。

倉島

両方をかけ持ちというか、兼ねてらして、『日国』の資料集めでは松井先生が終始中心になられていたわけですけれども、大体、夜の会合で大変でしたね。

松井

夜はね。

倉島

集まってくださる方も大変なんだけれども、それぞれ十数人のいくつかの部会を毎月やったわけですから、あれはお疲れでしたでしょうね。

松井

そうですね。あれはどれにも大体出ていましたね。

倉島

そうなんですよ。全部、出ていただいた。全く、僕はあのとき、胃潰瘍になりましたけれども。

ちょっと話を進めますけれども、『日本国語大辞典』の執筆資料というのは、最終的には十数種類になりましたですね。それで、ABCDとか記号をつけてやりまして、貼り込みカードをつくったわけですけれども、先ほど来の増補カードは、その中の一点にくり込まれていったわけですよね。ですから、材料の量からいうと、増補カードというのは、まあ、何%かということになったことですし、新しい資料収集の結果、何十倍という膨らんだ材料ができたわけですが、それにしても、その材料をつくるもとになったのは増補カードだったと思うんですよね。だから、原動力としての『大日本』の増補カードは非常に大きかったと思います。

その関連で言いますと、増補カード以上と言うと失礼になっちゃうんだけれども、『大日本』の存在は、これまた大きいんで、用例を採取するときに基準とさせてもらいましたですね。あの『大日本』が基準で、用例文を採集してくださるみなさんに『大日本』の一巻本をお渡しして、これを基準にしてとってくれとやったわけですけれども、あれがなかったら、相当むだがあったですね。

松井

そうかもしれませんね。


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