第1回 三代の辞書への情熱
第2回 「大日本国語」から「日国」へ
第3回 「日国」初版の編集作業
第4回 100年の継続…「日国」第二版へ

倉島

続いて、今度は『大日本国語辞典』が成長していく過程を伺います。大正八年に四巻完成したところで、簡治先生は文学博士になられるんですけれども、そのとき、休む間もなく索引づくりにかかられて、索引と一緒に修正版というのが刊行されますね。この辺をちょっとお話しいただけますか。

松井

索引をつくるということは最初からの予定だったんだと思うんですが、なぜ索引が必要かというと、一つには、『大日本国語辞典』が当然、当時を反映して、見出しは歴史的仮名遣いになっているわけですね。そうすると、歴史的仮名遣いというのは、やはり普通の発音どおりではありませんから、引くという場合に非常に引きにくい。歴史的仮名遣いを知らなければ引けないという障害があったわけです。

そのころ、明治の終わりごろに、そろそろ漢字の音などは、今で言う現代仮名遣いに近い発音的なものを見出しにしたほうがいいんじゃないかと。そういう傾向が見え始めるわけですね。

まあ、それもあるんで、漢字索引の前に仮名索引というのをつけているわけです。これは表音式の仮名索引であるということを言っているわけです。ただ、表音式の仮名と歴史的仮名遣いが一致するものは入れない。だから、一致しないものだけ挙げるというやり方で仮名索引はできているわけです。

それから、その後に漢字索引がついているわけですが、これはほんとうは今やっている『日本国語大辞典』にも欲しいですね。というのは、日本語は漢字が出てきますね。その漢字が読めないと国語辞典は引けないわけです。ですから、こういう辞書では、漢字から引く索引というのも必要だということも当然考えたんだと思います。

一つの例を言えば、画数によって「明」という漢字を引くと、その「明」がつく熟語が並んでいるわけですが、そこにある「明日」という表記は、辞書の見出しでは四か所に出ているということが示されています。それはなぜかというと、「あす」「あした」「みょうにち」「めいじつ」に出ているからです。というので、四カ所に使われているということが、その漢字索引からわかるわけですね。

これは今の国語辞典もほんとうは欲しいんですよ。日本人は、掲示でもって、「明日十時、集まれ」と書いてあっても、これはあしたのことだとわかりさえすれば、「明日」をどう読んだって構わないわけですよね。けれども、外国人はそれを初めて見る場合に、一体、あれは何て読むんだろうと思ったときに、国語辞典を引こうと思っても引けないわけですから。読めなければ引けないから、漢字のほうで引いて出てくれば、あれは「あす」とも読む、「あした」とも読む、「みょうにち」とも読むとか、こういうことがわかるということにもなりますね。

ただし、ほんとうはそれだけじゃまだ不十分で、じゃ、「あす」と「あした」と「みょうにち」はどう違うんだ。「めいじつ」と言うのか言わないのかとか、そこまでほんとうは国語辞典でわからなければいけないということがあるんですが、それは別にして、そういう索引が国語辞典には必要だと、こう考えたんだと思いますね。

それと同時に、こういうのをつくるならば、いろいろ批判されているようなところ、やっぱり、ここは違っているんじゃないかとかということが言われていたと思いますから、そういうところで手直しをして修正版というのをつくろうと思ったんだろうと思いますね。

ただ、修正版と初版本とを、一生懸命比べたんですけれども、違いはあまりないんです。初めのところでちょっと気がついたのは、「阿吽」という項がわりに大きく直っていまして、全然違った意味が書いてあります。違ったというのは、言い方が変わってまして、用例が入ってなかったところに、謡曲『安宅』の例が修正版では入れてあります。ただし、行数は変わらないんです。

そういうようにしてやってありますから、これはよっぽど細かく見ていかないと、どこが修正してあるかというのは……。だから、多分、大きな修正はほとんどないと思います。各ページ終わりは、一巻をずっと見ましたけれども、おさまっている言葉は全然変わりがありませんからね。そのページの中でもし動かすことができたら、あるいは動かしたところがあるのかもしれませんが。

倉島

わかりました。索引が当初の計画から簡治先生の頭の中に入ってらしたというのは今初めて伺ったんで、これはまた、新たな感動的なエピソードです。

漢字のことは当然なんですけれども、字音だけを違うところへ出さなければというのは、考えてみますと、明治三十三年から四十一年にわたっては、小学校の教科書が字音だけ、例の表音式仮名遣いなんですよね。ですから、そういうことも頭にあって、配慮をされようと当初から考えられていたんでしょうね。それにしても、トータルな当初からの計画だったと思うんです。

昭和三年に索引が完成しているんですけれども、この年は、またちょっと奇しき一面がありまして、諸橋轍次先生が、大修館の鈴木一平と『大漢和』の契約を交わしているんですよね。『大漢和』の発想というのは簡治先生に促されて、ということをしばしば諸橋先生が語っておられましたので、昭和三年に索引の完成とともに、諸橋先生が『大漢和』の事を起こされるというのが大変意義深いというか、一つの偶然かもしれませんけれども、何か意義をちょっと読み取りたくなっちゃうところですけれども。

松井

ちょっと言い忘れましたけれども、明治に出た『言葉の泉』という国語辞典に索引がついているんですよね。だから、多分、ああいうのを見て、やっぱり、あるほうがいいんじゃないかと思ったんじゃないでしょうか。ただし、あれは漢字索引だけだったんじゃないかと思うんですがね。

倉島

わかりました。

で、先に時は流れますけれども、昭和七年二月に、松井簡治先生の古希祝賀会が催されているわけです。これも一つのエポックだったと思うんですけれども、そのときの記念冊子があって、その中に松井家のお写真があるわけですけれども、簡治先生を中心にして、お近くに驥先生が座られて、そのひざの上に栄一先生は乗っておられて、ずっと天井を見られているんですね。

松井

天井を見ているのかな? それはぼんやりしていたんじゃないんですかね。(笑)

倉島

そのころは五、六歳かと思うんですけれども、そのときの印象は? ご家庭の印象は残っておられるんでしょうか。

松井

その写真は控室かなんかで撮った写真だと思うんですが、講堂の壇上にみんな乗せられて、それでずらっと前に人がいたという感じがありましたけれども、この写真は全然わかりません。覚えてないですね。

倉島

編纂室が、関口駒井町のお宅の崖の下だか、上だか、いろいろあって、そういういわば「辞書の家」の別室といいますか、離れというか、そういうものとのかかわりというか、先生のご記憶をちょっと。ご家庭の模様をお話しいただけますか。

松井

それはもう私が成長してからも、ずっとそこにいましたから。母屋があって、崖の下に、新書斎という名前で普段呼んでいるところと、編集と呼んでいるのと、二つ建物があったんですよ。それで、編集と呼んでいるほうは、多分、『大日本国語辞典』を編集しているときに、外部からの、それこそ阪倉篤義先生のお父さんとか、そういう当時の大学院の学生さんが仕事を手伝ってくれていた建物だと思うんですが、もう私が知っているころは、ただ周りに書棚があって、がらんとしていて、あまり人が使っているような気配はない建物でした。

倉島

阪倉篤義先生のお父さんというのは篤太郎さんですね。上田萬年の要請を受けて語源の資料を集めるために通われたころのことを直接伺ったことがあります。そのとき自分とは交渉はなかったけれど四五人の方が居られたと……。それが書斎と呼ばれる方だったんですね。やがて人の出入りはなくなって……。

松井

ところが、新書斎という新しく建てたほう、ここはその後も何人かの人が辞書編集のために来ていたんです。というのは、その後の話になりますけれども、『中辞典』とか、増補カード作成とか、そういうのの仕事に来ていた人が、そこを使っていましたね。なぜ、あの編集というほうを使わないで、新書斎にしたのかはよくわからないんですが、住み心地は、やっぱり新しいほうがよかったですよね。編集のほうは相当荒れ果ててましたからね。

で、私が小さいころ、幼稚園などに通うころに送り迎えしてくれていたじいやさんというのがいたんですよ。六十ぐらいだったのかなと思うんですが、そのじいやさんが寝起きしていたのも、その編集という荒れ果てたほうなんですよ。それだけぐらいしか使ってなかったんじゃないでしょうか。

倉島

その新書斎というのは相当大きかったんでしょうね。

松井

いや、あまり大きくないです。周りに雨戸があって、建物としては玄関じみたものは何もなくて、濡れ縁があって、上がるとがらっと障子をあけて、すぐ書斎なんですね。それが四畳ぐらい、四畳半はなかったと思うんですね。そこに座り机が真ん中にあって、両側に座れるようになっていて、書棚があって、あと、人が一人ぐらい通れる程度の空間のほかはみんな書棚だったですね。で、トイレがあって。というぐらいで、全くの仕事部屋という感じですね。

倉島

それは前のときから、先生がお一人で執筆ですから、似たような編纂室で作業をなさっていたんだろうと思うんですけれども、それを今思えば、やっぱり索引をつくられていたから、そういう狭いところでもできたんじゃないかと。

また、OEDを引いて悪いんですけれども、ジェームズ・マレーの部屋なんかを見ると、カードでびっしりなんですね。書籍というよりは、カードの間ですよね。ですから、簡治先生の場合は、索引がきちっとできていたために、書籍だけで場所をそんなに取らなかったのかもしれませんね。

松井

そうですね。そこがよくわからないんですよね。私の知っている範囲では、祖父は新書斎にはほとんど行ってないんです。母屋にある自分の書斎でばっかり仕事をしていまして、新書斎というのは、父が『中辞典』をやったり何かするのに使っていて、そのころ、昭和十年過ぎだと思いますけれども、外から二人ぐらい手伝いの人が来てまして、三人ぐらいでやっていました。


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