倉島

今のお話で、上京されて、英語を学ばれたと。外国語をかなり勉強なさったんだと思うんですよね。それで、たまたま先ほどの明治二十年前後というのは、OED(オックスフォード大辞典)の第一巻がまとまるのが明治二十一年なんですね。正確には当時はまだNEDですが、上田萬年が、それを踏まえて『辞書論』を書いたのが二十二年ですよね。ですから、当時、文科大学に入られる前後に、簡治先生もOEDの第一巻をごらんになっているんでしょうね。

松井

多分、そうなんでしょうね。昭和女子大学で出している『近代文学研究叢書』に書かれているものによると、祖父は外国語学校をぜひつくるべきだと考えて、その運動を随分やっているんですね。それで一時できるわけです、外国語学校が。ところが、これがまた、経費の関係で一たん廃止されるんですね。それをまた復活しなきゃいけないんだということで、相当、運動をして、それで明治三十年に復興する。その後、非常に外国語学校が盛んになる。そういうことをやっているという記録があるんですね。だから、多分、外国語は必要だということで考えていたことは確かですね。

倉島

で、明治二十五年に学習院の教授になられて、ご家族を呼び寄せられて、居を構えられたと。そのころから、大辞典の編纂の志を立てられたと伺ったことがあるんですけれども、時期的にはそんなことでしょうか。

松井

多分、そうなんだと思いますね。『大日本国語辞典』の宣伝パンフレットによると、大体明治二十五年から約六年間、資料や参考書を収集したということですね。それから、その後五年間で索引を作成したということが書いてありますね。

ここに『書誌学』という雑誌の昭和十一年の七巻二号に祖父が出した『我が蒐書の歴史』というのがありまして、どうやって本を集めたかということが書いてあるんですね。これを読みますと、浅倉屋という書店が、東大に一番本を納めている。だから、これは浅倉屋という古本屋が非常にいいんじゃないかというので、浅倉屋から本を買うということにした。そのときに、大八車いっぱい、まず買う。それはどうも、あまりいい本はその中に含まれてなくて、それで約百円だったというんですが、その当時の百円は相当でしょうね。それを買って、もう一回、また一車持ってきたんで、これもあまりいい本はなかったんだけれども、七、八十円でそれも全部置いていけといって、そっくり買ったというんです。

それで、三度目に来たときに、もう二回、これだけつまらない本まで買ったんだから、多分、信用がついただろうからというので、それからは選んで、いいものだけを買うようにしたと。こういうことが書いてあるんですね。そういう買い方を昔はしているようです。

倉島

そうじゃなければ、あれだけの資料は集まらなかったでしょうね。

それで、ちょっと話は戻りますけれども、明治二十五年ごろから始められたとしますと、その前の年に『言海』が完成しているんですね。芝の紅葉館で祝賀会が盛大に行われましたから、簡治先生も当然、それをご存じだったわけですけれども、そのときに、『言海』の中身と比べて、もっと文献によった辞書をつくるべきだという発想がですね。まあ、『言海』を反面教師にしてというのも変ですけれども、そういう形で。先ほどのOEDなんかもごらんになっていて、文献を主体とした辞書というのを企画されることになったんじゃないかと想像されるんですけれども、OEDとか、『言海』の完成というのは、かなり簡治先生の事業に刺激になっていたんじゃないかと推測されますが。

松井

それはそうでしょうね。ただ、あまりその点ははっきり書いてあるものがないんですね。だから、ちょっとその辺がね。やっぱり、いくらか対抗意識があって、そういうことは書かなかったのか、ちょっとその辺はわかりませんけれどもね。


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