倉島

簡治先生のことは皆さんよくご存じだと思いますが、お父さんの驥さんのことは今日初めて伺うようなことが多かったです。まさに今のお話ですと、国語・国文に関心が深くていらしたわけですので、栄一先生は当然、国語・国文のプロパーでいらっしゃるわけですけれども、「辞書の家」が三代続く様子がよくわかりました。

ではまず、『大日本国語辞典』の誕生から入っていきたいと思います。簡治先生がお生まれになって、東京へ出て来られて遊学中といいますか、いろいろなことを勉強されていた時代がちょっと長かったように思うんですけれども、どうでしょうか。

松井

ええ。祖父の古希のときに古希祝賀記念の記念誌というのがあって、ここに履歴のようなものが書かれているんですよね。何年にどうしたというのが出ていまして、それによると……。

宮内という銚子の銚港神社の神官をやっていたのが祖父の父親でして、もともと姓は宮内だったわけです。

で、銚子が当時、交通の非常に大事な港であったために、高崎藩がそこの警備を任されていたらしいんです。それで、その警備の主任のような形で、高崎藩の家来であった松井清というのが銚子にいたわけですね。高崎藩の飛地があったと聞きますけれども。そこに陣屋というところがあって、その陣屋詰めというのでいたんですね。

祖父の父親というのは神官で教養があったために、そこの高崎藩から来た人たちの師弟を塾のようなものを開いて教えていて、それでどうも目をつけられたらしいんですね。それで、松井清というのが子供が全然なかったので、養子に来てほしいと言われて、松井に入ったというわけです。

祖父の奥さんになった人は、松井清の子供がいないので、その弟の娘なんですね。弟の娘と私の祖父が結婚したんで、夫婦とも養子なんです。夫婦養子ということですね。結婚したのが明治十五年らしいんですが、明治十七年に長女が生まれた。どうも生まれたときには、もう上京しているようなんですよね。ちょっとここの前後関係ははっきりしませんけれども、家族は残したまま一人で東京へ出てきて、最初は英語を学んでいるようなんですね。私立英語学校というのがあったようでして、そこに入学して英語を学んだということになっているんです。

ところが、入学したのは私立英語学校と書いてあるんですが、二十二年に私立明治会学館というのを卒業しているんです。私立英語学校の名が改まって、私立明治会学館となり、そこを卒業したということなのか、何も書いてないんで、よくわかりません。あのころは、どうも名前がよく変わるんですよね。だから、多分、入学した学校の名前が変わったんだとは思うんですが。

で、卒業してすぐ、今の東大に当たるんですが、文科大学とそのころは言いましたが、文科大学の教育学科に入っているんです。これがまた特約生としてあります。これは必ずその後、学校の先生になって教えるという前提で入れるところらしいんですが、そこで今度は、国文とか漢文の教育学を学んでいるということになっています。けれども、これはどういうわけか、一年ぐらいで卒業なんですよね。

倉島

一回だけの……。

松井

そうなんですね。何か、もうそれっきりで、後の後輩たちがいないらしいんですね。

それで、卒業した年に嘱託として獨協の先生になっているんですが、同時に、国文学の選科生というのになっていて、これまた一年間やっているんですよね。文科大学国文学科選科生として在学というのが、明治二十三年なんですが、この辺の関係も実はよくわからないんです。

それで、明治二十五年になると、学習院の教授に既になっているんです。この学習院の教授になったときに、家族を銚子から呼び寄せています。これはどれにも記録がないんですが、市ケ谷の近辺に住まいがあったんだと思います。そういう話を聞いたことがあるんで、多分、市ケ谷だと思うんですね。それからしばらくして、関口駒井町という、ずっとその後、長いこと住まう場所に移っています。


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