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祖父は、私の知っている限りは、朝から晩まで、座り机に向かって何かしているという印象でした。今から思えば、やはり辞書の資料をつくっていたと思えるんですが、私の知っている範囲では、朝は七時か八時ぐらいになって起き出しているように思いました。それは既に『大日本国語辞典』ができ上がってしまってからの話ですけれども。で、夕食が七時ぐらいか、もしかしたら八時ぐらいだったのかもしれないんですが、私の父と一緒に酒を飲んで話をして、それが終わると九時過ぎには、もう床に入っていたと思います。わりあい夜は早く寝て、朝早く起きる習慣だったように思うんですが、実際に辞書をつくっているころは、祖父が書いているものによれば、非常に早いんですね。朝三時に起きて。
なぜ三時に起きて仕事をするかというと、大学に勤めておりましたので、もう八時とか九時には大学のほうの仕事が入ってくる。あるいは人が訪ねてくるとかということもあったようでして、仕事は大体、朝の三時に起き出して五時間というのを辞書の仕事に当てている。人が決して訪ねて来ない時間であるというので、それをずっと学校のある間じゅうは続けていたんだと思います。
それ以外、私の知っている範囲では、もう晩年ですから、体が弱ってくるのを防ぐために、体操をやっていたんですね。それは夕方の食事の前ぐらいに、足踏み体操みたいなのをやったり、手を動かしたりという軽いものでしたけれども、みんな孫たちは、また、おじいさんがやっているということで、それも何か非常に不器用というか、あまりスマートな体操ではなかったように覚えています。
祖父の性格は、どうなんでしょうかね、今から思えば、もう少しいろいろ話を聞いておけばよかったなという思いがありますけれども、父とは違っていたような気がするんですね。
私の父というのは、会社勤めが嫌になるとすぐやめるたちだったらしくて、最初、大学を出てすぐ勤めた所は一年ぐらいでやめたようで。上司とけんかしたと聞いているんですが。それで、その後、東京市役所に入って、これは何年かいたようなんですね。私が小さいころ、北海道の函館に一年ぐらいいたらしいんです。私は全く覚えていませんけれども、函館市役所に勤めていたと聞いています。父の履歴書というのがありまして、実は今日、それを一生懸命探したんですが、ちょっと見つからなくて持ってこられませんでしたけれども、内容は数枚にわたっているんですね。それはここは何年にやめて、こっちに勤めて、ここをやめて、また勤めてというので、戦争中も何カ所か変わっていました。勤めていない時代もあって、勤めていない時期というのは、祖父の辞書を手伝っているわけです。
で、私の母の話によると、父の月給がどのぐらいだったか全然知らない、渡されたことはないと。いい時代だったな(笑)と思いますけれども、みんな、祖父が出していたんだと思います。一緒に生活していましたから。
あのころの国立大学の先生というのは給料は非常によかったようですね。それからもちろん、辞書の仕事もありましたけれども、教科書の仕事がありまして、あれはやっぱり印税なんでしょうが、入っていたんだと思います。それで、親戚の者は大体、私の祖父を頼って来てまして、私の小さいころは大体、家で生活しているのは、お手伝いさんやなんかも含めて十一人とか十二人とか、そのぐらいだったんですね。私の父の姉というのが結婚して夫に死なれて、子供三人と一緒に家に戻っていたとか、そういうこともありますけれども、ほかに何かよくわからない親戚の人が居候していたこともありました。
まあ、そんなことで、父はわりあい、祖父と違って、いろいろと思ったように気ままにやっていたような気がするんです。
父は法科を出ていまして、だから、会社勤めに普通はなるわけですね。けれども、『大日本国語辞典』縮刷版のあとがきによりますと、十歳のころに祖父の辞書の原稿整理を手伝ったとか、大学時代に『大日本国語辞典』の三校を全部引き受けて、校正をしたとか、そういうことを書いていますから、わりに若いころから、もう祖父の辞書を手伝っていたということはあるわけです。
それで、国語・国文に関しても相当関心を持っていたようで、『国語と国文学』にも論文がありますし、『文学』という岩波の雑誌にも、『国語教育』という雑誌にも論文を出したりしていますので、一体、私のおやじは何をしていてたんだろう、という疑問がいまだにあるんですね。それで、法科を出て弁護士でもあったわけです。だから、弁護士の活動もしていた時期もあります。それから、東洋大学で中世法制史というのを教えていた時代もあるようで、さっぱりわからないんですね。(笑)
それで、大須賀乙字という俳人がいるんですが、この人に父の姉が嫁いでいるんです。それは最初の乙字さんの奥さんというのが早死なさったんで、その後妻という形で入っているんですけれども、そういう関係で、父は俳句もやっていまして、戦後は俳句、特に連句に興味があって、大分、連句の指導などもしているんですね。一体、いつ、そんなことを身につけたのか、これもよくわかりません。それは死ぬまでやっていたんですね。
私はどっちかといえば、祖父のほうに似ているのかなという気はします。というのは、父は非常に何でも書くのが早いんですね。死ぬ前一、二年、非常に大量に俳句雑誌に俳句の鑑賞とか、連句の修行欄とか、そういうものを連載しているんですね。それで仕事は衆議院の行政監察委員会という名前だったか、何かそういうのがありまして、そこに勤めるかたわら、そういうことをやったりしていて、非常にぱっぱと書けたらしいんですね。私はそういかないんで、祖父もほとんど、書いていませんから、私が祖父に似ているのかなという気がします。
まあ、そんなところですね。
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